広島県北東部の山々に囲まれた三良坂・吉舎・総領の3町にまたがる灰塚地域にダム建設が持ち上がったのがおよそ40数年前。
長い建設反対の闘争期間を経て、現在は美しいダム湖を残すために様々な人々によってダムエリアの再建プロジェクトが進行しつつある。
灰塚アースワークプロジェクトは、この広域の自然と文化をひとつのネットワークで結びつけようと、1994年からサマーキャンプ、ワークショップや環境への提言などをおこなってきた。
「灰塚アースワークプロジェクト」の招待作家として現地滞在。ダム工事に伴い民家や農地の移転が進行するなか、およそ200haの森林が水没し、20~30万本の木が伐採されるという話を聞いて、森の引っ越しについて考えてみようというのが、このプロジェクトのはじまりだ。伐採される木を使って60m大の筏状の船をつくり、それを山のてっぺんに移動すること。もちろんそれは人力では不可能だが、ダム完成時に行なわれる湛水実験時(ダムのもっとも高いレベルまで水をためる)には、水位とともに船を浮上させることができる。実験後は水位を下げるので、船は山のてっぺんにのせることが可能なのだ。
プランは単純だが実際にこのプロジェクトを推進するには、さまざまなハードルがある。どのように木を集めるのか、水に浮いているときはどうするのか、引っ越しするのは木だけでよいのか、不時着したあとのこと等、地元の人たちや専門家などから、知恵やちからを授からないといけない事柄がたくさんある。この年は、主に地元の人々にこのプロジェクトをより広く知ってもらうために、プランの展覧会やシンポジウムの開催、アンケートをとる、家を訪ねてまわる、新聞をつくるなどを行った。
船をつくる材料は、元口の口径が約10cm、長さ3~4mの桧の丸太が2700本必要。この年は木を集めているということをアピールした。そのために象(東南アジアでは木を運ぶ動物)やわに(広島県県北の伝統食。サメのこと)、だるまガエル(ダムエリア棲息、絶滅危惧種)が登場し、木の提供者を探して、ダムエリア内各所を訪問。移動距離は全60km。道路の拡幅工事があるからと、桧の材を提供してくださる人があらわれたり、建設省(現国土交通省)もダムエリアの伐採木材を取り置きしてくれたり、少しずつだが木は集まりはじめた。
3町の合流点にあたる向井橋のたもとの工場跡地に、建設省から船の制作場所としての占有許可がおり、この年はまず船をつくるための準備小屋を制作した。プレハブではなく白い小さな家と丸太の皮むきができる程度の少し大きな作業小屋を制作した。
船本体の制作に入った。人々が引越してしまった後のダムに沈む現地で、長さ60m、幅12m、高さ3mのふねをつくる。ふねといっても森の引越をするための仮の姿だから、トラス状に組んだ立体のいかだのようなものだ。一本づつ丸太の皮をむきながらボルトで組んでいく作業。約2ヶ月でトラス状の船の構造部分が完成した。
春と秋の2回の滞在で船本体のデッキ部分の制作とその発表を行なった。デッキに使用するひのきの丸太の数は約1700本。太さの違い、まがり、末口と元口の口径の差、これらをうまく組み合わせながらの作業。普通の床張りのようには、なかなかうまくいかない。地元の人々、近県の作家や学生などがたくさん作業に参加してくれるようになり、あたらしいネットワークができてきた。
試験湛水が行われる2005年まで、船はダム底で水が入ってくる歳月を静かに待つことになる。この待っているあいだに、地域の人たちと協働して、森の引越しをテーマに様々なワークショップを行った。また広島市現代美術館と旧日本銀行広島支店を使っての展覧会も併催した。現地では見学ツアーや船の上でのイベントも開催。
2003年の続編。水がきても流されないように、湖底に基礎とアンカーを打ち、係留する準備などを行う。
試験湛水がはじまり、ダムに水が入ってくる。水位が最高水位(100年に一度想定された洪水時のレベル)に達した時、船の設置予定の山(水面下にある)の真上まで国土交通省のボートにより牽引してもらう。
2006年3月。水位の下降にともない船が山の上に不時着。地元神楽団による司祭と完成のパーティ。現在にいたる。
美術家と写真家と建築家からなるユニット。発足は1984年。「家具」「家」「都市」といった既成の枠組みを「棲む」というキーワードでそれらの解体と再読を試みようとしている。活動は、美術館やギャラリーでの展覧会、野外でのプロジェクト、建築設計等、多岐にわたっている。現在のメンバーは池田修、中川達彦、小杉浩久、細淵太麻紀。2004年12月から、BankART1929の構築と運営にかかわっている。著書に作品集「PH STUDIO 1984-2002」(発行:現代企画室)がある。
PHスタジオホームページ(略歴など詳しい情報がごらんいただけます)