作業
事務所にて『モバイルハウスのつくりかた』の資料作成。自分も文章を書いてみたのだが、つい、長くなってしまった。またこれからおいおい直していくことにしよう。
2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。
今日は午後から『無言歌』(王兵 ワン・ビン監督)を見た。本題に入る前に、少し書いておこう。2003年に山形国際ドキュメンタリー映画祭でワン・ビン監督の『鉄西区』を見た時の衝撃は今でも忘れられない。9時間を超える作品であったこともそうだが、それ以上に、監督としての力量に恐るべきものを感じたからだ。話は飛ぶのだが、日本のドキュメンタリー映画の巨匠と言えば、土本典昭監督、小川紳介監督がいるわけだが、僕は半分冗談で両監督を比較して、野球選手で言うなら前者を王貞治タイプ、後者を長嶋茂雄タイプと言ったことがある。暴論承知で言えば、前者は努力型、後者は野生型とでも言えようか。(あくまでもイメージの話であって、厳密なものではない。)そこでふと現在のドキュメンタリー映画の監督を見渡した時に、長嶋茂雄タイプの監督はいないことに気付いた。もう、日本ではこういうタイプの監督は出ないだろうな、と思っていたところに、中国から表れたワン・ビン監督こそ、小川紳介監督の資質に最も近い監督だと思ったものだった。実際お会いしたワン・ビン監督は飄々として、野生型などでには見えないのだが、映画は違うのだ。では何が小川紳介監督の資質に近いかと言えば、時に映画内の整合性やストーリーを度外視しても、もっと大きな何かを力づくで鷲掴みにするような豪胆さを持っていることだ。さらに不謹慎を承知で書けば、ナイフの切れ味ではなく、棍棒のような鈍器でたたく感じなのだ。とにかく、こういうタイプの監督はなかなか現れないだろう。
さて前置きが長くなったが、『無言歌』はそのワン・ビン監督の初長編劇映画。1956年、中国では毛沢東が自由な批判を歓迎するとしたのだが、翌年、急に前言を翻してしまった。同時に批判の声を上げた人びとを弾圧する「反右派闘争」が始められる。思想矯正という恐ろしい目的のため、多くの人が強制収容所に送られ、強制労働を強いられる。映画は前半、特に中心人物を定めることもなく、この強制収容所の様子を丁寧に描き出していく。お粥のようなものを啜り、それすら無くなれば草を集め、ネズミを捕まえる。おぞましくも他人のおう吐物すら食べるものもいる。そして、人びとが音もなく次々に居絶えていく。そう、映画の中でこんな、丸太が倒れるような死の描き方を僕は見た記憶がない。そこには、感傷も何もない。即物的な死があり、物のように運ばれる死体がある。僕はつい、これはホラー映画だ、と思った、現実の出来事を描いているにも関わらず。それほど恐ろしい。後半、上海から来た女が夫の死を知ってから、物語が立ち上がってくるのだが、荒涼とした砂漠を歩き、墓(というより死体)を捜す光景はどこかシュールでもある。映画は収容されていた人が解放される(しかし次にも人が送り込まれることが暗示されている)シーンの後、唐突に終わる。傑作である。僕は映画を見ながら、ワン・ビン監督の資質をどう表現すればいいのか考えていた。普通、すごい才能、と言うのだろうが、どうもしっくりこない。僕が思ったのは、体質だ、というものだった。生まれついての映画を撮らずにはいられない体質。どこをとっても映画がにじみ出してくる体質。そういう監督はほとんどいない。僕にはそう思えるのだった。