2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。
2011/11/10 木曜日
今日は巷で評判になっているらしい、ドキュメンタリー映画『ちづる』(監督:赤﨑正和)を見た。本作は立教大学での卒業制作として製作され、劇場公開での配給・宣伝なども立教大学生が行っているらしい。題名の”ちづる”は監督の妹で、知的障害と自閉症を持っている。簡単に言えば、監督が妹と母親(および自分)を撮った作品だ。内容には興味があるのだけど、僕には生理的に合わない映画だった。あえて生理的に、と書いたのは多くの観客とは受け止め方が違うかもしれないからだ。これはドキュメンタリー映画に限らず、劇映画だって生理的に合わない映画は時々あるから特別なことではない。だから話はここで終わってもいいのだけど、僕が感じたことも書いておこう。まず、僕は監督と妹の距離感が嫌だった。身近な存在なので親密に映すことが出来ると思うのだが(もちろん、場合によっては身近だからこそ困難なことだって当然あるけど)、僕はその関係性に甘えているように感じてしまった。だからと言って、もっと客観的に、と思っているわけではないし、いわゆるプラーベート・ドキュメンタリー全般が嫌いなわけでもない。個別具体的なシーンとしてはなかなか説明しにくいのだが、「撮る」ことと「撮れてしまう」こととの違いかもしれない。ただ、僕が感じた甘えというのは、一般的ではないだろう。そこが「生理的に」と思った所以。もうひとつ、小さなカメラを使ったと思うのだけど、だからこそ親密感もあると思うのだけど、さすがに劇場の大きな画面で見た時には画面のブレが気になってしまう。途中から僕はうっすら頭痛を覚え、映画館を出た後もかなり疲労を感じてしまった。これは最近、多くの作品がハイビジョン、16:9の画面になったことの副作用、みたいなものだ。どうも人間の目は、横長の画面ほどブレた画面を苦痛に感じるようだ。(一方、こういう副作用があるので、やたらフィックスの画面ばかりのドキュメンタリーも増えていて、これはこれでつまらないのだが・・・。)僕も新作のほぼ半分ほどは手持ち撮影をしているので、大きな画面で見た時にどう見えるのか、実はまだ確認できていない不安がある。だから、来週、その点もチェックする予定ではある。
未分類 — text by 本田孝義 @ 22:17:22
2011/11/9 水曜日
今日は午後から新・港村に行って、VIDEO ACT!の出展ブースの撤収を行う。と言っても、展示していたサンプルDVDを宅急便で送るだけだったので、あっと言う間に作業は終わったのだが・・・。他のブースもすっかりかたづいているところがほとんどで、宴のあとの寂しさが漂っていた。
未分類 — text by 本田孝義 @ 22:05:09
今日はユーロスペースで『サウダーヂ』(冨田克也監督)を見た。各方面からの好評の声を聞いてどうしても見たくなった。チラシ等のイメージから勝手に思い描いていた作品とはかなり違っていた。どうしたわけか、僕はもっとハチャメチャな作品かと思っていたのだがそうではなかった。非常にごった煮感満載の映画なので、簡単にストーリーを紹介するのは難しい。映画のHPの言葉をそのままコピーすれば、崩壊寸前の土木建築業、日系ブラジル人、タイ人をはじめとするアジア人、移民労働者たち。そこには過酷な状況のもとで懸命に生きている剥き出しの“生”の姿があった、とある。実際、撮影が行われた街に住む人たちがキャスティングされているようだ。この映画に関しては、「郊外」「地方都市」「リアリティー」などという言葉が語られると思うのだけど、僕は見ながらどうもそれらの言葉ではしっくりこないなあ、と思っていた。そこでふと思ったのは、「地元映画」というものだった。(思いついたきっかけの一つは、この夏、僕も参加した岡山での美術展「朝鮮学校ダイアローグ」の副題が「もうひとつのジモト」だったことにもある)少し前には、「ジモティー」なる、ちょっと侮蔑的な言葉が使われたことがあったが、この映画から漂ってくる気配は、この「地元」感だと思ったのだ。例えば、映画の舞台は山梨県らしいのだが(映画内では明確には街の名前は出てこない)方言丸出しのセリフ、ロケ地の佇まい、キャスト達の面構えと身体性などから、濃厚に地方感(前にも書いたが、東京から対比して)が表れる。だが、その地方感には、嘘っぽさがない。なぜ、こういうことを書くかと言うと、近年、「地方発」をうたった映画が多数製作されているが、その内実は東京のスタッフ・キャストが地方ロケで作った映画が多く、一種の「疑似地方」映画も多いからだ。それらの映画では、ことさら地方の純朴さを強調してみたり、あるいは疲弊した地方を強調してみたり、物語の舞台装置として「地方」が選ばれている感じがしてしまう。確かに、映画というものは、どんな国・どんな場所・どんな人でも描けてしまうでたらめさが魅力の一つではある。そういうことを踏まえても、本作の「地方」感には「本物」が持つ魅力があふれている。そのことを僕は「地元映画」と呼んでみたくなった。なぜ、こういうことを考えたかと言うと、先日見た『ひかりのおと』を見た時にも、未見ながら本作のことを勝手に思っていて、映画のベクトルは全然違うものの、何か共通した匂いを感じたからなのだ。単純な共通項で言えば、監督がよく知っている町で、身近な人たちをキャストに選び、身近で見聞きしてきた話を巧みに物語に盛り込むことによって、唯一無二の、その土地からしか生まれない映画=地元映画が出来ているのではないか、と思う。まぁ、本作、映画の本来の話からえらく遠くの話を書いてしまったが、僕は今日本映画で起きている地殻変動はとても面白いな、と思っている。(ああ、結局、映画の感想がどこかにいってしまった・・・。)
未分類 — text by 本田孝義 @ 0:09:32
2011/11/8 火曜日
今日、昼間、あるドキュメンタリー映画のDVDを見ていた。また、別のドキュメンタリー映画の劇場公開についてある人に相談に乗ってもらっていた。そして、夜は、上映について会議に参加していた。なんだか一日中、ドキュメンタリー映画の劇場公開について考えていたような気がする。映画館で普通にドキュメンタリー映画が公開されるようになって、もう随分経つ。僕が映画を作り始めたころには映画館で公開されるドキュメンタリー映画なんてほとんどなかったことを思えば随分いい時代になった、のかもしれない。が、映画館で映画を公開することは「興業」になるわけで、1本の映画を観客に届けるには、時間も労力も、そしてお金もかかる。ある映画監督は映画を作ることと同じくらい大変だ、と言っていた。それでも映画を公開するのは、まだ見ぬ観客と出会いたいからでもある。一方、どんなドキュメンタリー映画でも映画館で公開できるわけではなく、様々な理由から公開が難しい、あるいは大変な映画もまた存在する。製作者の思いだけではどうにもならず、映画をかけてくれる映画館の判断も当然ある。そこをどう突破するのか、には正解がない。同時に、時間も労力もお金も使って公開してみたところで、本当に観客が足を運んでくれるのか、その保証はどこにもない。本来はこうした部分を担うのがプロデューサーなのだろうが、自主制作のドキュメンタリー映画の場合、明確なプロデューサーがおらず、監督自らが抱え込むことも多い。僕はどんなドキュメンタリー映画であっても、それが「映画」として作られたのなら映画館で見てみたいと思う単純な人間だが、映画館で公開する大変さもそれなりに分かっているつもりなので、絶対公開した方がいい、とは必ずしも言わない。でも、少しでも多くの人に届けたいことがあるなら挑戦してほしいとも思う。・・・少なくとも自分はまた挑戦しなければ、と思う。
未分類 — text by 本田孝義 @ 0:09:58
2011/11/7 月曜日
ヨコハマトリエンナーレ連携企画”新・港村”が今日、3カ月の会期を終了した。夜、クロージングパーティーに行ってきた。8月6日に始まった頃は、岡山の展覧会を控えていたり、その後は、新作の仕上げと重なったりと、何かと綱渡り的な参加でしたが、個人的にはとても刺激的な展覧会でした。水曜日にVIDEO ACT!のブースを撤収予定。
未分類 — text by 本田孝義 @ 0:48:48
2011/11/5 土曜日
未分類 — text by 本田孝義 @ 22:02:30
2011/11/4 金曜日
未分類 — text by 本田孝義 @ 22:41:58
2011/11/3 木曜日
今日、映画を1本見たのだが、タイトルを書きたくない。久しぶりに腹がたった映画だった。脚本に大穴が空いていると思うのだが(と普通、つい書いてしまうのだが、脚本を読んでいないので、推測でしかない。なぜなら、脚本が現場で変えられることがあるからだ。)製作者たちはそれでいい、と思ったのだろうか。そういうもんなのだろうなぁ。
未分類 — text by 本田孝義 @ 22:18:44
今日は2本のドキュメンタリー映画を試写で見た。
まず、1本目は『イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘』(監督:ヨアヒム・チルナー)という、ドイツのドキュメンタリー映画。タイトルの”イエロー・ケーキ”とは、原発問題について詳しい方なら知っていると思うが、ウランを精製して出来る、原発の燃料になる製品のこと。本作はその、ウラン採掘の問題を世界中に取材した作品。僕は福島第一原発の事故が起きてから、いろんなことが議論されるなかで、川上にあたるウラン採掘の問題がほとんど語られていないことに不満があった。最近ではやっと、核廃棄物の問題は広く認識されてきたようだけど、日本は現在、ウランに関しては100%輸入に頼っていることもあって、ウラン採掘はどこか遠い国のこと、自分たちとは関係ないことのように思われているのかもしれない。そんな中、こうした映画が公開されるのはとても意味がある、と僕は思う。映画は東ドイツのウラン採掘から始まる。ウランを採掘しても燃料に使えるのは1%ほどなので、膨大なボタ山=無駄なごみの山が出来上がる。この光景はほとんど黙示録的な風景だ。こうしたごみも当然、放射能を発しており、被曝の危険性があるし、事実、ウラン採掘を行ってきた労働者の多くになんらかの病気がみられるという。その後、映画はナミビア、オーストラリア、カナダとウラン採掘の現場を追う。(ちなみに、この3カ国から日本はかなりウランを輸入している。)僕が特に気になって見ていたのは、オーストラリアだった。オーストラリアから輸入しているのが一番多いはず。ここでは先住民・アボリジニの土地を奪い、ウラン残土からの健康被害も起きている。映画を見て唖然とするのは、とにかく特段の施設もなく、ひたすら残土を捨てている光景だ。映画でも少しふれられているが、ここで採掘されたウランは日本に来ているのだ。同時に、映画では触れられていないが、こうしたウラン鉱山には日本の電力会社の資本も入っている。また、映画のラスト近くになって、除染作業の様子が出てくるが、到底、あの程度ではまともに除染が出来るとは思えない。この映画を見てあらためて思ったのは、結局、人類は核エネルギーをコントロール出来なかった、ということだと思う。蛇足になるが、原発事故後、多くの政治家がエネルギー自給率のために原発が必要だ、という頓珍漢なことを言っているのを聞いて正気を疑った。先に書いたように、ウランは100%輸入だし、すでに埋蔵量の限界も見えている。本当にエネルギー自給率のことを考えるなら、無尽蔵でしかもタダの太陽や風を利用するのは小学生でも分かりそうなものなのに・・・。もうひとつ、蛇足を書くなら、僕の出身県である岡山県には人形峠というところでウラン採掘がおこなわれていた。(現在、閉山)ここでもウラン残土の扱いが大問題となってきたのだった。
2本目に見たのは『トーキョードリフター』http://tokyo-drifter.com/ (松江哲明監督)。先日、東京国際映画祭でも上映され、すでに大きな話題となっている。松江監督の前作『ライブテープ』同様、ミュージシャンの前野健太が街の中で歌う、という部分では同じなのだがかなりテイストの違う作品になっている。まず、前作が全編1カットで撮られていたことに対し、本作はいくつかの場所で撮られている。続けて書けば、本作で最も印象に残るのは、時には手ブレでガタガタする画面だ。(時にはピンボケも。)明らかに量販店で売っているような小型のカメラで撮られている。普通の「映画」なら、何だそれ、となりかねないような画面だが、本作はそのカメラが暗い街、前野の声と呼吸しているような感覚を持っている。一方で、録音はきちんとされていて、そのギャップがより映画の息遣いを高めている。前作と全然違う、松江監督の戦略は今作でも十分生きている、と思った。
未分類 — text by 本田孝義 @ 0:09:11
2011/11/1 火曜日
昨日に続いて、今日も体がとてもだるい。それでも、体を持ち上げて、新作の公開に向けて少し動きを進める。やらなければいけないことは山積み・・・。
未分類 — text by 本田孝義 @ 21:48:38
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