『テザ 慟哭の大地』
ほんの少しだけ宣伝のお手伝いをした(具体的にはデザイナーの方の指示に従って、チラシ用のカットの抜き出しをやっただけですが)『テザ 慟哭の大地』をやっと見た。作業をした時は超早送りで見ていたので、さっぱり内容は分からず、でも、構成・内容ともに複雑そうな映画だな、と思っていた。先月から公開されて、見なければと思いつつ、ここのところどうも重い映画を見る気分になれず敬遠していたのだが、今週末で終了とあっては見なければなるまい。で、やっと今日ゆっくりと見ることが出来た。映画の内容は、一言で言えば、主人公の目を通して見たエチオピアの現代史・叙事詩といったところか。と書いてはみたものの、その描き方を一言で表すのは難しい、という不思議な映画だ。映画は冒頭から主人公が子供時代の自らの幻影を見るところから始まり、中盤からはフラッシュバックを頻繁に多用し、自らの過去が語られる。と同時に、一種魔術的なエチオピアの風景が相まって、独特の印象を残す。内容だけを見るととてもヘビーなものだ。主人公は意志を目指してドイツに留学している時に、祖国エチオピアで政変が起き、皇帝が追放される。新しい政権は共産主義を標榜する軍事政権。しばらくして主人公は祖国に帰国するが、「革命」という名の粛正が吹き荒れている。僕はこうした粛正のうっ屈したシーンを見ながら、最近、とある会議でなぜ、共産主義政権は異論を許さず、純粋性を追求するのか、と質問したばかりだった。僕はマルクス主義もきちんと勉強したことはないのだけど、純粋性を追求する理由が大本の思想にあるのか、権力を維持するために出てくるものなのかよく分からない。いずれにせよ、こういうシーンを見るのはしんどい。その後、主人公は再び東ドイツに戻るのだが、今度は人種差別に起因する悲劇に見舞われる。だが、映画の最後ではエチオピアの新生を信じる神秘的なシーンで閉じられる。この映画の不思議な魅力は、ぶっきらぼうと言うか、荒削りというか決して洗練されていないところだ。ただ、僕はインテリの蹉跌という面も強く感じてしまってのめりこめない部分があったことも確か。なお、監督のハイレ・ゲリマは先ごろ発表された、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の審査員に決まったようだ。