2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。

本田孝義

2010/1/27 水曜日

「太陽を曳く馬」(上・下)

風邪はなんとか持ち直したようで、いつくかの雑用を済ます。

高村薫著「太陽を曳く馬」(上・下)を読み終わる。圧倒される読後感。ただし、本作も読みやすくはない。福澤家3部作としては、一応、本作がミステリー小説の体裁に一番近いが、中で描かれる話はなかなかに難しい。まず、前半で描かれるのは3部作の主人公ともいうべき、福澤彰之の息子・秋道の殺人事件。この秋道が画家という設定だから、美術論ががんがん語られる。こういう小説で美術論を読むとは思わなかったので、少し驚き。後半は、東京の禅寺で起きた人が死ぬ事故をめぐる話。高村薫の小説に何度も出てきた、合田雄一郎が禅寺の僧侶と宗教問答。そこにはオウム真理教が宗教と呼べるか、という、これまたかなり難しい宗教論が。こう書いてみると、とても小説とは言えないような、哲学書のような趣だが、不思議と筆力に支えられて、読むことが出来た。ラストでは、『晴子情歌』の冒頭シーンが繰り返され、同じく、手紙という形で幕が下りるが、宙づりにされたような、頭をかき乱されたような余韻が重く深く残る。こんな経験は久しぶり。読み終わって、しばし考えて思ったのは、では、高村薫は何がやりたかったのか、ということだったりしたのだが、今日、僕が思ったのは、ミステリー小説の解体だったのではないか、とぼんやり思ったりしている。通常、ミステリー小説では事件(多くは殺人事件)が起き、犯人探しが始まり、事件の背景、殺人の動機などが明らかになってくる。そういう意味では、本作の基本構造も実は変わらない。だけれども、事件の動機は簡単に説明できるものではないし、事件の背景にいたっては、前2部作を加えるととてつもない物語が横たわっていることになる。ミステリー小説を表面的に解体するのではなく、その奥深くに手を突っ込んで、力技でその構造をゆさぶっているように思うのだ。その試みはすべて成功しているとは思えないが、成功していない、容易に読み下せないごつごつした手触りを感じさせることの方が重要だと思う。とかく動機や背景が分からない事件が増えているように思える現代に、高村薫は真正面からぶつかっていったことは確かだと思う。恐ろしい小説だ。(全3部を通じて。)

未分類 — text by 本田孝義 @ 22:04:19