『意志の勝利』
言わずと知れたナチス党大会のドキュメンタリー、レニ・リーフェンシュタール監督『意志の勝利』がこの夏、渋谷で上映されている。公開から時間も経ったし、もう終わったかと思っていたらまだやっていたので見に行った。どうもヒットしているようで、10月までの続映が決まったようだし、今日も平日昼間だというのに(行ってる自分もどうかと思うが)8割がた埋まっていた。一体何を期待して見に来るのだろう。「禁断の映画」という怖いものみたさだろうか・・・。
さて、映画はコクピットから見える雲の映像から始まる。党大会が開催されるニュルンベルグの空撮と飛行機。ヒットラーが降り立つ、というわけだ。そして、宿泊先のホテルに行くまでのシーンに映画的なテクニックがほぼ出尽くしている。車に乗るヒットラー、歓呼の群衆、敬礼したヒットラーの手のアップなどがリズミカルに編集されている。こうした劇的な効果を狙った演出が最後まで続く。この映画を見ながら思っていたのは、デザインとナチス、建築とナチス、音楽(特に行進曲)とナチスの関係という細部から分析することにも意味がありそうだ。僕の知識では足りないので省略。また、映画を見て初めて知ったのだが、『意志の勝利』を紹介する時に、「ナチス党大会の記録」と書かれ、有名な写真付きで紹介されるのだが、党大会はいくつもの閲兵式や夜の集会などからなっていて、決して1か所にとどまるものではない。だからと言っては語弊があるかもしれないが、114分の長さがあっても飽きない。そう、映画的観点から言えば、移動撮影や劇的モンタージュを駆使して、飽きさせないためにあの手この手を駆使しているわけだ。監督のレニ・リーフェンシュタールは、戦後ナチスの協力者として様々な批判を浴びるわけだが、権力と表現者の関係という普遍的な問題と同時に、彼女の不幸(見方を変えれば栄光)は、完璧な映画を作ってしまったことにあるのではないか、と思った。話は飛ぶが、戦後日本のドキュメンタリーにおいて、劇的なカットを劇的なモンタージュでつなぐ手法をいかに乗り越えるかが模索されていたと思う。例え内容が反戦的なドキュメンタリー映画でも、レニ・リーフェンシュタールが駆使したような手法を使う限り、本質は変わらないのではないか、という批判である。僕自身にも両方の側面がある。時には劇的になることを嫌悪し、同時に劇的なつなぎを平気でやってみたり。だから『意志の勝利』という映画は、映像制作者にとってテクニックを真似したくなる部分と反面教師にしなければならない部分があり、そういう意味でも「禁断の映画」かもしれない。(もちろん、権力者とどう向き合うのか、という倫理的問題もあるわけだが。)ヒットラーについても思うところがあったが長くなったので省略。