大切な日
今日は僕にとってとても大切な日でした。諸般の事情で詳しくは書けないのですが。いずれ詳しく書ける日が来ることを願って。
2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。
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気が付いたら今週末で上映が終わると知って『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』(監督:大浦信行)を見に行った。正直に書くと僕は見沢知廉の本を読んだことがない。だからファンでもない。そんな人間が見るのはどうかと思うが、逆にどういう人か知りたいからこそドキュメンタリー映画を見る、ということはある。タイトルの「天皇ごっこ」は、内ゲバで同志を殺した見沢知廉が獄中で書いた小説。本作は基本的に生前の見沢知廉を知る人びとが彼のことを語り、実像を浮かび上がらせるのだが、もうひとつ大きな仕掛けがあって、彼には双子の妹がいたという虚構を導入し彼女が彼の足跡を訪ねる、という演出が加わっている。僕はこの演出が最後まで馴染めなかった。話が脱線するのだが、最近、文庫になった「ゼロ年代の想像力」を読んだ。この本で90年代以後の小説・アニメ・漫画などでたくさん描かれたいわゆる「セカイ系」の作品が批判されているのだが、その大きな根拠に母性的承認に埋没していることが挙げられている。本作は必ずしもその構図に当てはまるわけではないが、同じような心象を感じてしまった。それは本当に見沢知廉を描くにふさわしい企てだったのか、僕はどうしても疑問をぬぐえない。各人が語る、見沢知廉の思考はそれぞれに興味深いものだった。もうひとつの特徴としては、インタビューの映像もかなり凝っている。撮影は近年の若松孝二監督作でもなくてはならない存在になっている、辻智彦。独特の絵画的ライティング、カメラ移動など飽きさせない描き方が随所にあるのはさすがだ、と思う同時にちょっとやりすぎかな、と思うこともあった。例えば、カメラを動かし人物からカメラを外すカットなどだ。「画」としては面白いのだが、はたしてこの映画にふさわしい演出なのかはちょっと考えてしまう。総じて、僕はいろんな演出が凝らされた映画なのだけど、本当はもっとソリッドな映画の方が見沢知廉という人物を描くにはふさわしかったんじゃないか、という気がしている。
最近読んだ本を2冊。まず、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也著)700ページを超える大著だが一気に読める。まずは木村政彦、ひいては柔道(今の講道館柔道とはまた違った形の柔道)がいかに強かったのかを丁寧に描き出し、プロレスラー力道山戦で「負けた」理由を解き明かす。傑作。もうひとつは『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(柳澤健著)僕は女子プロレスにも、クラッシュ・ギャルズのファンでもないが、著者の『1976年のアントニオ猪木』がめちゃくちゃ面白かったので読んでみた。前作の興奮度には及ばなかったのだけど(題材が違うから)、クラッシュ・ギャルズがどういう存在だったかが浮かび上がる。両著作(あるいは近年のプロレス、格闘技本)の共通項はプロレスが「スポーツ」ではなく、シナリオがある「ショー」であることが前提として語られている点。少し前なら、こうした視点の本は書けなかっただろう。そうした意味では、「真実」を探るノンフィクションとしては鉱脈がまだまだありそうだ。同時に、ではなぜプロレスが美しいのか、もまた書けるような気がする。
今日は辛亥革命を描いた『1911』を見たのだが、正直、あまり面白くなかった。体調が悪かったせいもあるかもしれないけど。僕はジャッキー・チェンは好きなので、出演作100本目と聞いて、あらためてその偉業を思う。本作では総監督でもあり、主要な出演者でもあるのだが、いつものアクションはほぼ封印。そのことは寂しいけど、役者としての新しい面を見せたい意欲も分かる。けど、僕が中国の現代史に疎いせいもあるのだが、どうも大河ドラマ的な展開の中で登場人物たちの絡み方、描き方が平板で乗り切れなかった。特に、前半は革命の戦闘場面はそれなりに見せるのだが(それでもこれらのシーンもただ爆発が派手なだけで、今一つ熱くなれない)後半の皇室を含めた様々な人物たちの政治的な駆け引きをめぐるドラマは退屈だった。だから、総じてあまり面白く思えなかった・・・。
今日は午前中、所用で出かけて、午後は家でゆっくりと日本シリーズを見ていた。世間的には全然、盛り上がっていないような気がするが、いい試合だった。一方で、昨日は巨人の内紛が噴出している。映画では『マネーボール』が公開されたので見るのが楽しみ。(以前、ノンフィクションの原作を読んでとても面白かったので。)
今日は、『エンディングノート』(監督:砂田麻美)という、これまた話題になっているドキュメンタリー映画を見た。僕の住んでいる錦糸町のシネコンでも上映してるぐらいだから、ヒットしているのだろう。実は、僕はこの映画を見る気がなかった。なぜなら、この映画は父親がガンで亡くなって行くことを娘が撮った、と聞いていたので、僕は父が亡くなって5年経つとはいえ、どうしてもあの頃のことを思い出しそうで、見たくなかったのだ。けど、ちょっとしたことがあって、見ておいた方がいいと思ったので見に行った。確かに映画は、上記のような映画なのだが、構成・編集がとても高度に出来ていた映画だった。本当はラストシーンである、葬儀のシーンから始まり、時制をものの見事に展開し(近い過去や大過去に自在に映像が切り替わる)物語を飽きさせないようにつないでいく手腕はすごいと思った。が、同時に、そこまでやっていいのか、という不安も正直感じた。僕はどうもうまく語り過ぎるドキュメンタリーには警戒感が働くらしい。加えて、監督が(最初は監督の声とは思っていなかったのだけど)父親の内面を勝手に斟酌してナレーションで語るので、面白くする仕掛けはさらに整っている。こうした技巧は特に前半部分に集中していて、後半からは父親の健康がさらにすぐれなくなってからは、ナレーションも少なくなり、じっくりと見せるトーンに代わって行く。この変化も実によく出来ている。・・・というのが映画の作りに関しての感想。僕は映画を見ながら、やはり父の場合と比較して見ていた。まず、この映画の父親・砂田知昭さんと僕の父はどちらも胃がんで、末期がんだった点が共通していた。けど、砂田さんの方が少し元気そうだった。なぜなら、闘病がしばらく続いたようだし家にも帰れていたし旅にも行けていたし、食べるものもそれなりに食べていたようだから。(抗がん剤の治療とかは大変だっただろうけど、そうしたシーンはほとんど出てこない。)僕の父は、検査入院から結局3週間後に亡くなってしまったから。もうひとつ共通していた点があって、砂田さんの病状の進行は思っていた以上に早く、余命がかなり短いことが分かるシーンがあり、家族は結局、そのことを砂田さんに伝えない決断をする。僕の場合は、父は胃の手術をしたのだが、全く処置できないことが分かり、結局、何もせずそのまま体を閉じた状態だった。要は抗がん剤にしろ、何にしろ、治療は出来ないということで、その後は緩和ケアしかなかった。父の兄姉、僕と妹で相談して、父にはそのことを伝えないことに決めた。(胃がんの手術をすることは伝えていたけど。)医者から、本当のことを伝えた場合、急激に悪化する可能性がある、と言われたからだ。だから、父は手術が成功して胃を取った、と思っていた。短い時間とは言え、亡くなるまでずっと本当のことを伝えなかったことはつらかった。父はもっとつらかった、と思う。今でもあの決断でよかったのか、思い出すことがあるが、ああしか出来なかった、というのが本音だ。映画の砂田さんはそれでも、さすがに亡くなる数日前には死期を悟っていたようだ。僕の父は、多分、亡くなるほんの少し前まで、死ぬとは思っていなかっただろう。(それほど、緩和ケアの効果が絶大だったのは驚きだった。)映画の砂田さんと僕の父の大きな違いは、父は熟年離婚していたので、夫婦のつながりがなかったことだろう。(当然、僕の母親、父の元妻は一度も病室には来なかった。僕はそのことは当然だと思っていた。)まぁ、他にもいろんなことを思い出したのだが(例えば葬儀のことなど)長く書きすぎたのでこの辺でやめておこう。
今日は巷で評判になっているらしい、ドキュメンタリー映画『ちづる』(監督:赤﨑正和)を見た。本作は立教大学での卒業制作として製作され、劇場公開での配給・宣伝なども立教大学生が行っているらしい。題名の”ちづる”は監督の妹で、知的障害と自閉症を持っている。簡単に言えば、監督が妹と母親(および自分)を撮った作品だ。内容には興味があるのだけど、僕には生理的に合わない映画だった。あえて生理的に、と書いたのは多くの観客とは受け止め方が違うかもしれないからだ。これはドキュメンタリー映画に限らず、劇映画だって生理的に合わない映画は時々あるから特別なことではない。だから話はここで終わってもいいのだけど、僕が感じたことも書いておこう。まず、僕は監督と妹の距離感が嫌だった。身近な存在なので親密に映すことが出来ると思うのだが(もちろん、場合によっては身近だからこそ困難なことだって当然あるけど)、僕はその関係性に甘えているように感じてしまった。だからと言って、もっと客観的に、と思っているわけではないし、いわゆるプラーベート・ドキュメンタリー全般が嫌いなわけでもない。個別具体的なシーンとしてはなかなか説明しにくいのだが、「撮る」ことと「撮れてしまう」こととの違いかもしれない。ただ、僕が感じた甘えというのは、一般的ではないだろう。そこが「生理的に」と思った所以。もうひとつ、小さなカメラを使ったと思うのだけど、だからこそ親密感もあると思うのだけど、さすがに劇場の大きな画面で見た時には画面のブレが気になってしまう。途中から僕はうっすら頭痛を覚え、映画館を出た後もかなり疲労を感じてしまった。これは最近、多くの作品がハイビジョン、16:9の画面になったことの副作用、みたいなものだ。どうも人間の目は、横長の画面ほどブレた画面を苦痛に感じるようだ。(一方、こういう副作用があるので、やたらフィックスの画面ばかりのドキュメンタリーも増えていて、これはこれでつまらないのだが・・・。)僕も新作のほぼ半分ほどは手持ち撮影をしているので、大きな画面で見た時にどう見えるのか、実はまだ確認できていない不安がある。だから、来週、その点もチェックする予定ではある。
今日は午後から新・港村に行って、VIDEO ACT!の出展ブースの撤収を行う。と言っても、展示していたサンプルDVDを宅急便で送るだけだったので、あっと言う間に作業は終わったのだが・・・。他のブースもすっかりかたづいているところがほとんどで、宴のあとの寂しさが漂っていた。
今日はユーロスペースで『サウダーヂ』(冨田克也監督)を見た。各方面からの好評の声を聞いてどうしても見たくなった。チラシ等のイメージから勝手に思い描いていた作品とはかなり違っていた。どうしたわけか、僕はもっとハチャメチャな作品かと思っていたのだがそうではなかった。非常にごった煮感満載の映画なので、簡単にストーリーを紹介するのは難しい。映画のHPの言葉をそのままコピーすれば、崩壊寸前の土木建築業、日系ブラジル人、タイ人をはじめとするアジア人、移民労働者たち。そこには過酷な状況のもとで懸命に生きている剥き出しの“生”の姿があった、とある。実際、撮影が行われた街に住む人たちがキャスティングされているようだ。この映画に関しては、「郊外」「地方都市」「リアリティー」などという言葉が語られると思うのだけど、僕は見ながらどうもそれらの言葉ではしっくりこないなあ、と思っていた。そこでふと思ったのは、「地元映画」というものだった。(思いついたきっかけの一つは、この夏、僕も参加した岡山での美術展「朝鮮学校ダイアローグ」の副題が「もうひとつのジモト」だったことにもある)少し前には、「ジモティー」なる、ちょっと侮蔑的な言葉が使われたことがあったが、この映画から漂ってくる気配は、この「地元」感だと思ったのだ。例えば、映画の舞台は山梨県らしいのだが(映画内では明確には街の名前は出てこない)方言丸出しのセリフ、ロケ地の佇まい、キャスト達の面構えと身体性などから、濃厚に地方感(前にも書いたが、東京から対比して)が表れる。だが、その地方感には、嘘っぽさがない。なぜ、こういうことを書くかと言うと、近年、「地方発」をうたった映画が多数製作されているが、その内実は東京のスタッフ・キャストが地方ロケで作った映画が多く、一種の「疑似地方」映画も多いからだ。それらの映画では、ことさら地方の純朴さを強調してみたり、あるいは疲弊した地方を強調してみたり、物語の舞台装置として「地方」が選ばれている感じがしてしまう。確かに、映画というものは、どんな国・どんな場所・どんな人でも描けてしまうでたらめさが魅力の一つではある。そういうことを踏まえても、本作の「地方」感には「本物」が持つ魅力があふれている。そのことを僕は「地元映画」と呼んでみたくなった。なぜ、こういうことを考えたかと言うと、先日見た『ひかりのおと』を見た時にも、未見ながら本作のことを勝手に思っていて、映画のベクトルは全然違うものの、何か共通した匂いを感じたからなのだ。単純な共通項で言えば、監督がよく知っている町で、身近な人たちをキャストに選び、身近で見聞きしてきた話を巧みに物語に盛り込むことによって、唯一無二の、その土地からしか生まれない映画=地元映画が出来ているのではないか、と思う。まぁ、本作、映画の本来の話からえらく遠くの話を書いてしまったが、僕は今日本映画で起きている地殻変動はとても面白いな、と思っている。(ああ、結局、映画の感想がどこかにいってしまった・・・。)
今日、昼間、あるドキュメンタリー映画のDVDを見ていた。また、別のドキュメンタリー映画の劇場公開についてある人に相談に乗ってもらっていた。そして、夜は、上映について会議に参加していた。なんだか一日中、ドキュメンタリー映画の劇場公開について考えていたような気がする。映画館で普通にドキュメンタリー映画が公開されるようになって、もう随分経つ。僕が映画を作り始めたころには映画館で公開されるドキュメンタリー映画なんてほとんどなかったことを思えば随分いい時代になった、のかもしれない。が、映画館で映画を公開することは「興業」になるわけで、1本の映画を観客に届けるには、時間も労力も、そしてお金もかかる。ある映画監督は映画を作ることと同じくらい大変だ、と言っていた。それでも映画を公開するのは、まだ見ぬ観客と出会いたいからでもある。一方、どんなドキュメンタリー映画でも映画館で公開できるわけではなく、様々な理由から公開が難しい、あるいは大変な映画もまた存在する。製作者の思いだけではどうにもならず、映画をかけてくれる映画館の判断も当然ある。そこをどう突破するのか、には正解がない。同時に、時間も労力もお金も使って公開してみたところで、本当に観客が足を運んでくれるのか、その保証はどこにもない。本来はこうした部分を担うのがプロデューサーなのだろうが、自主制作のドキュメンタリー映画の場合、明確なプロデューサーがおらず、監督自らが抱え込むことも多い。僕はどんなドキュメンタリー映画であっても、それが「映画」として作られたのなら映画館で見てみたいと思う単純な人間だが、映画館で公開する大変さもそれなりに分かっているつもりなので、絶対公開した方がいい、とは必ずしも言わない。でも、少しでも多くの人に届けたいことがあるなら挑戦してほしいとも思う。・・・少なくとも自分はまた挑戦しなければ、と思う。