会議
今日は月に一度のバイオハザード予防市民センターの幹事会。1月に行うシンポジウムの詳細を詰めたり、ワクチン問題について議論したり、バイオ施設に対する調査について議論したりとなかなかに頭を使う会議でした。
2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。
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今日は月に一度のバイオハザード予防市民センターの幹事会。1月に行うシンポジウムの詳細を詰めたり、ワクチン問題について議論したり、バイオ施設に対する調査について議論したりとなかなかに頭を使う会議でした。
今日はTOKYO FILMeXで『無人地帯』(藤原敏史監督)を見た。まず、加藤孝信さんの撮影が素晴らしい。冒頭の長回しから引き込まれる。一方で、僕は藤原監督の考えに共感できない。それはナレーションで語られることに表れていて、僕は違う考えを持っていることだけを書いておく。また、やたら重々しく感じる音楽も僕には合わなかった。
今日は本当は”デジタルシネマとVPF問題のシンポジウム”に行きたかったのだけど、急遽、新作の上映の件でやらなければならないことが出来てしまい、自宅でUstreamの中継を見ようとしたら、えらく途切れてほとんど内容が分からないような状態で残念だった。その後、アーカイブされているようなので、またの機会に見よう。それにしてもこの問題(簡単に説明するのは難しいのだが、要は映画館の全面デジタル化の動きに付随して、ミニシアターの存亡の危機でもある問題)、製作者としては一番影響を受けるのはドキュメンタリー映画の製作者であることは確実。何せ映画館で公開される日本のドキュメンタリー映画は今やほぼビデオ作品。加えてシネコンで上映される作品は稀で、ミニシアターがあるからこそ上映出来ているようなものだ。やっとこの10年ぐらいでドキュメンタリー映画が普通に上映されるようになってきたばかりなのに。今後も注視していかなければ。
夜、NO NAME FILMS http://nonamefilms2011.com/ のBプログラムを見に行った。この上映は15分×10本の短編を上映するもの。そのうちの5本を見たことになる。”NO NAME”と言っているように、若手の作り手たち。5本あるとつい、あれは良かった、これはどうもとつい比較してしまう。短編ではあってもそれなりのスタッフ規模で作られているようで、どの作品も技術的にしっかりしているし見ごたえもあった。中でも僕は木村有理子監督の『わたしたちがうたうとき』が良かった。『dughters』もそうだったが、本作も家の映画だと思った。少女二人の絶妙な関係が繊細に描かれていた。そしてもう1本、特別上映された山川公平監督の『あんたの家』がすごかった。ぴあフィルムフェスティバルでグランプリをとった作品だそうだ。詳細は省くけど、介護生活を真正面から描き迫力があった。・・・とここまでは大雑把な作品の感想なのだけど、気になったことが2つ。それは各々の作品・監督には関係がない。まず、上映企画名の”NO NAME FILMS”に僕は疑問を持った。これは何かで読んだだけなのだけど、小川紳介監督は「世の中に無名な人はいない」と語っていたそうだ。それがドキュメンタリー映画を撮る上でのポリシーでもあったのだろう。その話を知って、僕も「無名」という言葉は出来るだけ使わないようにしてきた。どんな人にも名前はある。まして映像作品を発表するような人は10歳の少年でも90歳の老人でも無名であるはずがない。まぁ、反語的な意味で”NO NAME”と言っているのだろうけど。それからもう一つは、今回の企画はユニジャパンが経済産業省より「平成22年度新進若手映像等人材発掘・国際ネットワーク構築事業」を受託して製作されたもの。偏見を承知で言えば、近年の経済産業省のコンテンツ産業育成方針が僕にはどうもよく分からないのだ。片や文化庁が文化事業を支援しているのに、2頭立てにならないだろうか。内部では棲み分けがあるのだろうけど。なんだかしっくりこないのだ。(そう言えば、最初に書いた話も経済産業省は関係がありますね。)
3・11以後、国内外問わず、原発関連のドキュメンタリー映画が多数公開されている。僕はどちらかと言うとそれらの映画を見ていないほうだと思う。なぜかと聞かれても、特別な理由はない。じゃあ、無関心かと言うと、自分ではそうではないつもりだが、なぜか見逃している映画が多いのも事実。で、今日はそんな原発関連の映画の1本『アンダーコントロール』を見た。ドイツのドキュメンタリー映画。見る前の勝手な予備知識で、原発解体を描いた映画だと思っていたら違った。確かに、実際に稼働しなかった高速増殖炉なども出てくるが、されだけではない。様々な原発が出てくるし、事故を想定した訓練の様子、高レベル放射性廃棄物の貯蔵庫なども出てくる。こうした映像が美しい画面と堂々としたシネスコの構図と、時にはドリーを使ったカメラワークで描かれる。確かに映像的には見るべきものが多々あったのだが、僕はあんまり面白くないなあ、と思ってみていた。そう思いながら、ふと、ドキュメンタリー映画を見て「面白い」というのはどういう状態なのか、と考えてしまった。これは一言で説明するのは難しい。抽象的に言えば「ああ、世界はこうなっているのだ」と感じれる時が面白いことだと思うのだが、その要素にはあることを知ったり、人に興味を持ったり、感情移入したり色々あるだろう。本作では映像としては「面白い」とは思ったのだが、僕の中ではそれ以上に何かが湧いてくることも迫ってくるものもなかった。
今日は午後からバイオハザード予防市民センターのニュースレターを印刷。事務所にて封筒入れ作業。無事、メール便にて発送。ふぅ。
夜、神保町の路地と人に行って、カフェ放送てれれの11・12月号を見る。僕は何でもアリ、ごった煮感満載のてれれの上映が好きだ。ついつい、職業柄「作品」を見るとなると構えてしまうけど、自由な空気が流れているてれれの作品はあまり構えることもなく見れる。カフェ放送、とあるように、カフェでお茶でも飲みながら、という感じがいい。上映後も、見た作品のことからいろんな方向に脱線していって、いろんな話が出来るのも楽しい。てれれは大阪での上映が中心だけど、ここ東京でもここのところ、コンスタントに上映が続いているので、もっと多くの人に見てもらいたいなあ、と思う。次は1月。新年会気分の上映会か?
今日は2カ月に一度のバイオハザード予防市民センターのニュースレターの編集。充実した原稿が多数集まり助かった。多少、ばたばたしたが編集も滞りなく終了。宛名ラベル等も印刷、貼り付け完了。はたして、明日、いい時間帯で印刷・郵送できるか・・・。
なんだかんだと、今年の日本シリーズを結構、見てしまった。僕は現役時代の秋山選手が好きだったので、監督になってからのホークスも気にはなっていたのだった。結果、今日、優勝できてよかった。本当に点が入らない日本シリーズだったけど、逆の見方をすれば、どちらのチームも最終的に相手を攻略できなかった、という印象もある。久しぶりに野球をテレビで見たけど、今回のような投手戦、比較的短い時間で進む試合でも3時間半ほどはかかるので、現在のせわしない時代にはやはり相当忍耐を強いるものかもしれない。特にサッカーを見てる人には長く感じるだろうなあ。(あ、もう何度も書いたけど、やっぱり野球は初めて見る人にとってはルールが複雑だと思う。三振だって説明するのは大変かも。めっきりテレビ放送が少なくなった野球だけど、来年以後は副音声で「初めての野球」的な解説、ルール説明などを入れながらやると少しは見てもらえるのかも、とも思う。)
今日はえらい暴風雨の中、「トークライブ・映画で語るサイエンス」を聞きに行ってきた。旧知の粥川準二さん(ライター)と斉藤勝司さん(サイエンスライター)が映画を題材にサイエンスを語る第2回。今回のテーマは「核・原発」であった。話は『ゴジラ』から始まった。その後も多くの映画を紹介されていて、僕は意外と見ていない映画が多いことに気付いた。今後気になっているのは、冷戦終結後、核による世界破滅を描いた映画はかなり減り(核に関しては「核テロ」映画が増えた)90年代以後はバイオハザードもの(病原体による人類滅亡)が増えた、という印象があるのだが、はたして福島原発の事故以後、フィクション映画の世界では再び「核」が取り上げられるのか、ということだったりする。(多分、ハリウッドではあまり影響ないのでは、とも思っているのだが。)
なんだか見た映画の話ばかり書いている気がするが、まあ、いいか。今日は『コンテイジョン』を見た。まがりなりにもバイオハザードに関する問題をいまだに追いかけている身としては見なければいけないだろうなあ、と思っていた。感想に入る前に、近年、SARSや新型インフルエンザなどの流行もあって、病原体によって人類の危機が訪れる映画が増大した。加えて、多くの作品が作られてきたゾンビ映画も人がゾンビ化する原因として病原体を理由にするものも多い。だから、さすがにもう、全然、全部追いかけることなんてしていない。時々、アンテナに引っかかった作品を見るぐらいだ。で、本作だ。映画の宣伝ではアカデミー賞受賞俳優が多数出演していることを売りにしているが、監督のソダバーグはそこを逆手にとったことが面白い。ほとんどの出演者が見事にスターのオーラを消しているのだ。時々、こういうことをやるのがハリウッド映画の懐が深いところ。バイオハザードの描写としては、多分、僕は初めてちゃんとしているな、と思った。世界中のパンデミックが描かれるのだが、突然血を吐くような扇情的な描写を避けている。また、感染の広がりも徐々に徐々に広がる様がきちんとしていて、突然人類が死滅したかのようなバカな描写もなく抑制されている。同時に、いわゆるハリウッド映画のセオリーでは、問題を英雄的に解決するヒーローが描かれたりすることがあるが、こうした人物も出てこない。唯一、英雄的とも言える行動をするのはCDC(疾病管理センター)の女性研究者が開発途上のワクチンを自分に打つことぐらいだろう。(それすらも、「英雄じゃない」と自分で打ち消す。)また、過剰な人間ドラマを持ち込まない点にも好感を持った。要は基本的にはパニック映画ではあるのだが、そのパニックがじわじわ進行し、少しずつ世界が壊れていくのだ。・・・と僕は映画を面白く見たのだが、現実に目を向けると気になることがある。近年、新型インフルエンザや鳥インフルエンザの人への感染が過剰に危機感を煽られている、と僕は感じている。ウィルスは変異するので、強毒化する可能性は原理的にはあるのは当然だが、本当にパンデミックが起きるかは別問題だ。一部の学者が過剰に危機感を強調したことによって、ワクチンの備蓄などに膨大な予算が使われている。(ワクチンには有効期限があるので、使われなかったワクチンは毎年大量に破棄される。)鶏が先か卵が先か、ではないが本作のようなフィクション映画も人びとが危機感を持つことにいくらかは貢献しているだろう。もし仮に「予防」として対策が必要だと言うのなら、現に今起きている原発事故後に懸念される疾病も同じように防がれなければならないはずだ。(もちろん、病原体と放射能では疾病が起きる原理が全く違うので様相が違うのは当然だ。)片や起きてもいないパンデミックの危機感を煽り、片や現に進行しつつある放射能による被害の危険を低く見積もるのは、政府の対策としてとてもちぐはぐだと思うのだ。