事務所で
今日は事務所にて諸々の作業。
2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。
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今日は、『タンタンの冒険』を見た。スピルバーグ念願の作品、っていうのはもう随分前から言われていたけれど、予告編を見た印象はよくなかった。で、本編を見てもその印象は変わらなかった。僕は3D・吹き替え版で見た。(3Dは時として字幕を読むのはしんどいことがあるので。)まず、あの「絵」に僕はどうも馴染めなかった。パフォーマンス・キャプチャーという、人間の演技をデータとして取り込み、それを元に3DCGにした映像。これは最近の作品でロバート・ゼメキスも追求してきた技術だが、僕にはどうも目指しているのが「リアルな映像」なのか「アニメ」なのかどうもよく分からないのだ。リアルな映像なら実写でいいわけだし、アニメならアニメらしい絵、というのもある。言ってしまえば、リアル6:アニメ4ぐらいの映像は、どうも僕の生理的には気持ち悪い映像なのだ。それはもしかすると、僕はアニメファンではないが、それなりに日本のアニメに馴染んでいるからかもしれない。ただ、もちろん利点もあって、アニメでしか表現できないような表現も多々あって(一番顕著なのはモロッコでのアクションシーンか)それはそれで確かにすいごいとも思った。もうひとつは、ストーリー的にも新味に乏しい。大雑把に言えば、宝探しの話なのだけど、こういう話はなんだか古臭いものに思えてしまった。僕にとってはどうにも乗り切れない映画だった・・・。
見たいと思っていた『マネーボール』をやっと見た。面白い映画だったし、ブラッド・ピットもすごくいいのだが、少し物足りない感じも。映画としては当然と言えば当然なのだけど、主人公のビリー・ビーンがアナリストとともに進めた、野球選手の評価が「マネーボール」の正体だが、映画はその評価軸をささっとうまく表現しているのだが、どのへんが画期的だったのかが少し分かりにくい気もする。それは多分、僕が原作を読んでいるからだろう。その辺と後半のチームの快進撃がもっともっと有機的にからんでいれば、もっと面白くなったと思うのだけど、どうだろう。
現在、最も精力的に建築関係の本を出し続けている、建築評論家・五十嵐太郎さんの著作「被災地を歩きながら考えたこと」を読み終わった。五十嵐さんは仙台にある東北大学で建築理論を教えていて、東京と仙台を行き来する生活をされている。3・11の地震が起きた時は東京におられたようだが、東北大学の研究室が入った建物が被災し、研究室が使えなくなってしまった。そんな中、五十嵐さんは宮城と岩手の沿岸部を中心に、北は青森、南は千葉までを実際に歩きながら、建築物がどうなったのか、建築家がどう震災に向き合っているのか、建築に出来ることは何かなどを考察している。まず、被災地の状況を建築という視点から様々な角度でルポされていることが大変意義深いと思う。もちろん、映像では津波で流された家屋、倒壊したビルなどを数多く目にしているが(ちなみに本書にも五十嵐さんが撮られた写真が数多く収録されている)建築史や社会の中の建築などを考えてこられた五十嵐さんだからこそ考察出来た、書かれたことが数多くあるように思う。本書は理論的に何かを煮詰めたものではなく、その時にしか書けないルポとして書かれている。また、建築家のあり方自体が問われるような状況でもあるが、多くの逡巡を抱えながらも数多くの建築家が何かをしようとしている様子も伝わってくる。とてもいい本だと思った。
今日は久しぶりに展覧会を見た。「モダン・アート、アメリカン」という展覧会。僕はそんなに美術史に詳しくないので、20世紀初頭のアメリカ美術、と聞いてもあまりぴんとこなかったのだが、エドワード・ホッパーの絵が展示されることを知って、どうしても見たくなったのだ。最近、無性にホッパーが気になっている。展示の最初の方に展示されていたリアリズム作品はアメリカの大自然を多く描いていた。その後、ヨーロッパの印象派の影響を受けた作品群は、技法だけでなく貴族的な雰囲気までアメリカに見出しているのは、発見だった。が、どうもこのあたりは、どこか借り物めいた気がしなくもない。と同時に、絵画が描く世界が白人のものであることも気になっていたが、別の部分で移民・他民族の作家も紹介されていた。(その中には岡山出身の国吉靖雄も含まれる。)僕が面白かったのは、やはり第二次世界大戦前後、アメリカの都市を描いた作品群だった。残念ながらホッパーの絵は2点だけだったが、「都会に近づく」という作品のどこか吸い込まれるような不気味さが強烈に感じた。その後、抽象絵画で世界の潮流をリードすることにもなるようだが、今回の展示作の中ではずば抜けて印象に残る作品は、僕にとってはそれほどなかった。
今日は『大津波のあとに』(監督:森元修一)と『槌音』(監督:大久保愉伊)という2本のドキュメンタリー映画を見た。(後者は短編。)先週、見に行ったのだが満員で入れず。上映が今週まで延びたので見ることが出来た。2本とも3・11の東日本大震災後、比較的早い時期に被災地で撮られた作品。まずは前者の感想。僕は映画を見ながら、とても複雑な気持ちになった。それは映画のせいではなく、自分の心持の問題。まず、映画は延々と続くがれきの山を移動撮影で映し出す。しつこいほど映し出す。この感覚はテレビではなく、まさに映画のリズムだ。仙台、東松島、石巻と移動しながら、被災した人々の姿も映し出していく。とても誠実な映画だった。一方、自分ではどこか物足りなさも感じていたのだが、では、その自分は何を求めてこういうドキュメンタリー映画を見ているのか、はたと考え込んでしまった。もちろん、映画が成立するいろんな要素を勘案して映画の良し、悪しを言うことは出来る。けれども、被災地を撮影したドキュメンタリー映画を見る時に、自分の中にどこか妙な「期待」があることに気付いたのだ。それはもしかして、痛切な悲劇なのか、それでも生きていくたくましさなのか、安っぽいドラマを見たいわけではないけれど、何かを知りたい欲望があるのだった。だけど、同時にそんな期待を持つことはとんだお門違いだ、ということも分かっている。では一体、被災地を描いたドキュメンタリー映画に僕は何を見たいのか、とんと分からなくなってしまった。とても多くのドキュメンタリー映画の監督が被災地に入り、映画が製作されている。多分、僕はそれらの映画を見るだろう。そして見るたびに同じような煩悶を持つのかもしれない。2本目の短編『槌音』は、監督の実家は大槌町にあり、被災した。かつて大槌町で撮っていた映像と3・11後の映像をコラージュして描いた作品。僕は、正直言ってかつての映像と今の映像の編集がもっと効果的に出来たのでは、という気がしたのだが、タイトルに「音」とあるように、昔の「音」から現在の映像につながっていく構成はよかった。ずたずたになった実家の映像を見ながら、僕だったらどうしただろう、どう思っただろう、ということを考えていた。はたして僕は自分の故郷で映像を撮れるだろうか・・・・。
今日は夜、僕も製作に関わっている、『渋谷ブランニューデイズ』の完成披露試写会があった。いろいろありましたが、とにかくここにたどり着けてよかったと思います。(僕自身はたいして何もしていませんが。)聖イグナチオ教会のホールも満席で皆さん、食い入るように見ていたように思います。今日の上映会をスタートに上映、劇場公開が広がればいいのですが。
石井光太著「遺体―震災、津波の果てに」を読み終わった。読んでよかった、と思った。3・11の震災から8カ月が経つが、僕は震災直後から、死者がどう弔われたのか(あるいは弔うことがいかに難しいか)を知りたいと思っていた。僕は震災後のテレビ・写真の報道をあまり見ていないので、報道がどうだったのかはよく分からないのだが、こういうシビアな現場はなかなか報道できないだろうな、と思っていた。筆者は地震直後から釜石市に入り、遺体を収容し、検視をし、火葬される現場を関わる人たちの行動から克明に描き出している。僕は刺激的な本のタイトルもあって、センセーショナルな書き方ならいやだなと思っていたのだが、そんなことは全くなかった。読んであらためてすごいなと思ったのは、死者に関わることになった人たちが各々の立場で懸命にその職責を全うしようとしている姿だった。