映画の完成と父の死
2007年1月4日、父が亡くなった。享年67歳だった。その前後のことを思い出すと、今でも胃が痛くなり、いやな汗が流れる、そんな気がする。
『船、山にのぼる』は2006年春ごろ、ほぼ撮影は終わっていて、6月には文化庁の助成を受けられることが内定していた。諸般の事情で、編集に取り掛かったのが10月ごろ。やっと骨格が見えてきた12月中ごろ、父から電話がかかってきた。胃がんの疑いがあるという。急遽入院することになり、父は一人身であったこともあって、病院側から病状について説明したい、とのことで、僕は岡山へ帰った。かなり悪いことが判明した。一旦、東京に戻ってきたものの、緊急に手術することになり、また慌てて岡山に戻った。結果は最悪だった。何も処置できず、年を越すのも難しいかもしれない、という状態だった。僕は目の前が真っ白になると同時に、これから最後の仕上げにかからなければいけない映画のこともあって、混乱していた。医者から、いつ亡くなってもおかしくないと聞いていたので、とにかく岡山に留まることにした。けれども、映画の仕上げに関して、きちんとお願いをしていなかったこともあって、録音の米山さん、現像所の新藤さん、ナレーターの川野さん、あるいはPHスタジオの方々と打ち合わせをするために、一度東京に戻り、慌しく打ち合わせをした。しかし、その後のスケジュールが全く読めなかったので、皆さんには曖昧なことしか言えなかった。翌日、再び岡山に戻った。
その後、父は年を越したものの、1月4日、息を引き取った。こういう仕事をしていると、親の死に目にあえないかも、という漠然とした気持ちを持っていたので、死に目に会えたのはよかったのかもしれない。1月6日、葬儀を済ませ、8日東京に戻ってきた。
東京に戻ってみると、『船、山にのぼる』のために音楽を作り録音してくださった風の楽団の音源が届いていた。僕は「ふるさと」を聞きながら涙を流していた。
文化庁の助成を受ける、ということは2007年3月末までに映画を完成させなければいけない、ということだ。3月末までに完成しないと、1銭も助成金を受けられないばかりか、5年間応募が出来ない、というペナルティーもつく。タイムリミットは近づいていた。
なんとか気持ちを立て直して、編集の詰めに入ったのだけど、この期に及んで足りない映像が出てきた。おまけに、2月になってから全面的に編集を見直すことになり、連日徹夜が続いた。こうして、録音スタジオに入る目処が立たなくなり、米山さん、川野さんには迷惑をかけることになった。
その間、本編では使っていないのだが、ラジコンヘリによる空撮もやった。けど、結果が芳しくなく、あらためて空撮をする必要に迫られた。出来る日は限られていた。3月4日、父の49日を済ませた翌日、岡山の空港からヘリに乗り、広島県の灰塚まで飛んで空撮を行なった。映画のラストシーンの空撮は、本当に最後の撮影だったのだ。
3月末の完成(フィルムにする作業がある)から逆算し、全てがギリギリのスケジュールで作業が続いていた。録音作業も無事終わり、現像所に入れ、映画が完成したのは、締め切り2日前だった。(文化庁の担当官はちゃんと完成試写で完成を確認する。)パンフレットやホームページに自分でもどういう映画か分からなかった、というようなことを書いているが、完成直後は、とにかく完成にこぎつけるまでに必死で、客観的にどういう映画なのか分からなかったのは本当のことだった。ただただ、締め切りに間に合った安堵感だけがあった。
こうして2年前のことを書いていても、苦しかったことばかりを思い出す。けれども、幸いなことに今年、映画館で公開し多くの方に見ていただけたのはつくづくありがたいことだとも思う。
父の3回忌を前にして書いておきたかった。(明日、岡山に帰り、あさって法事です。月曜日には東京に戻ります。岡山でお世話になった友人・知人にも会いたいのだけど、どうも時間がなさそうです。)
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