会報印刷
なんだか映画とは関係の無い話が続くが、(本当は関係あるのだけど)今日は新井秀雄さんを支える会の会報を印刷した。注文した封筒が明日届く予定なので、印刷も明日でいいか、と思っていたのだが、やれる時にやってしまおうと思い、印刷室の空き状況を聞いたら今日出来そうだったので、今日、やることにした。で、実際に原稿を印刷して読み返してみると、間違いがあったりしてまた直すのに時間をくう。それでも、印刷自体はわりとスムーズに完了。
気持ち的には最後の仕事なので、今日も秋晴れの天気のように晴れやかなはずなのに、やはり、裁判で負けてしまっているから、その辺はすっきりとはしない。
僕は、本当はこうした裁判支援には、あまり関わりたくない人間だったと思う。なぜなら、僕の父は僕が小さい頃、ある医療過誤事件の裁判支援をずっとやっていて、なんで他人のことなのに一生懸命なのか理解できなかったし、家にいないことも多かったから子供心にさびしい思いをしたもんだ。今では父の行動も理解できるが、それでも僕は積極的にそうした活動をしたい、あるいはすべきだ、とはなかなか思えなかった。そんな自分が、なぜ、新井さんの裁判を支援することになったかと言えば、やっぱり、自分が作ったドキュメンタリー映画と関係するからだ。新井さんは当時所内の職員の立場で、国立感染症研究所の立地を批判していた。僕はそのことに興味を持って、ドキュメンタリー映画で描いた。だけれども、やっぱり映画を作り公開するに当たって、所内からどんな締め付けがあるかも分からないから、ずっと気にしていた。もし仮に何かの処分があったら、自分が率先して動かなければいけない、という覚悟は持っていた。幸い、映画を公開しただけでは何も処分がなかったが、僕も編集に協力して、幻冬舎から新井さんがご自身で著書を出版することになったことが転機だった。著書出版と同時に、週刊文春が記事を掲載することになり、新井さんも取材を受けられた。週刊誌にはよくある話で、結構、扇情的な見出しが広告に躍った。さすがに、研究所・厚生労働省も黙っていられなくなり、2001年1月4日に厳重注意処分を受けることになってしまった。僕がその遠因を作ったようなところもあって、この処分は僕の問題でもあると思ったのだ。ドキュメンタリー映画は現実に存在する人を描くわけだから、映画によって様々な反応があることは当然ある。製作者が全てを背負い込むことは無い、と僕は思っているが、新井さんの場合は、僕自身、逃げてはだめだろう、と思ったのだ。けど、出来ることは、処分撤回の裁判を支援することぐらいで、それ以上はなかなか出来なかった。裁判は負けてしまったけど、自分なりの落とし前はなんとか付けられただろうか。
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