メタボリズムの未来都市展/『監督失格』
六本木の森美術館で「メタボリズムの未来都市展」を見る。建築に詳しい人なら”メタボリズム”と聞いてすぐ分かると思うのだが、知らない人に説明しようと思うと少々ややこしい。簡単に書くと1960年からおきた日本の建築界でブームになった、都市・建築を固定したものとして考えるのではなく、生物の新陳代謝をモチーフにした、有機的な都市・建築の考え方をいう。実は僕はこのメタボリズムにちょっと胡散臭いものを感じていてこの展覧会を見に行ったのだが、自分が感じていた胡散臭さが何だったのか、分かったような気がする。これも説明するのはなかなか骨が折れるのだが、生物の持つ増殖性や変化を建築に取り入れようとした、建築家のアイディア・情熱はよく分かる。けれどもここに「不幸」があるのは、どの建築・都市計画もそのベースはどこまでいっても近代建築であって、コンクリートが建築材料なのだ。どんなに有機的なデザインに見えようとも、個別のモジュールなどもコンクリート造であることは変わりがない。もし、本当に生物的な新陳代謝を本気で求めるなら、材料も木材などの方がもっとふさわしいはずだ。ということを考えていたら、ある仮説にたどりついた。本展覧会が、丹下健三の広島ピースセンター(現在の原爆資料館)から始まっているのを見て、メタボリズムが始まった1960年というのは戦後15年、あの戦争の災禍を脱出しようとする空気がまだ残っていたのではなかろうか。なぜこれだけコンクリートが建築で一般化したかにはいろんな理由があるが、日本の戦後だけを考えてみると、焼夷弾による空襲で家・都市が焼けてしまった光景からの反省・脱却があるのではなかろうか。(たまたま今読んでいる本に、アメリカは日本の家屋をよく研究していて、木造のモデルハウスまで作って焼夷弾の実験をしていた、という話があった。)とにかく、都市計画も建築も「焼けない」ことが重要だったのではないか、と思った次第。だから、メタボリズムがいかに有機的なデザイン・考え方をしようとも、コンクリート造は手放せなかったように思うのだ。もし、今、生物的な、有機的な建築を考えるなら、建築素材も有機的なものを考慮に入れたものになるのではないか、と思う。(もっとも、「燃えない」建築は今でも変わっていないので、防火対策を名目に都市では木造建築を作ることはほぼ不可能。)最後の方で、頭はふと東北被災地の復興のことが浮かんだが、これはまた長くなるので省略。あれこれちょっと否定的なことを書いてしまったが、個別の建築家ではなく、ある時代の建築の潮流を見せる展覧会としては貴重。展示もとても見やすくてよかった。
その後、同じ六本木ヒルズで『監督失格』http://k-shikkaku.com/ (監督:平野勝之)を見る。(本当はこちらを見ようと思って上記の展覧会を思い出し行った次第。)あまりにも評判がいいので、逆に僕は見るのをためらっていた。見るのは覚悟がいるな、と漠然と思っていた。だから見るのが怖かった。その怖さは半分当たっていた。映画は前半、以前平野監督が作った『由美香』のシーンが占める。僕も公開当時見ているが、もうかなり前のことなので忘れていることが多い。うろ覚えで書くなら、本作に使われている映像は、『由美香』では使っていなかった映像も多いような気がする。あえて比較するなら、平野監督の思いが伝わる映像が多いという印象を持った。林由美香に僕は思い入れはないので、前半はいつか見た映像を反芻している、そんな感じだった。けど、こういう僕ですら、林由美香が死んでしまったのは知っているので、複雑な気分ではある。映画は後半、林由美香と別れた平野監督が林由美香の幻想に悩まされるがごとく、つかずはなれずの関係が続く。そして、数年ぶりに林由美香を撮影しようとしていたところで彼女の死を目撃してしまう。これは映画監督の業というかなんというか、彼女の死を発見する時、ビデオカメラがそこにあり、映像が残されて「しまった」。(元々は平野監督の弟子がカメラを回していた。死体を撮るようなことはなく、カメラは無造作に廊下に置かれたままその場の状況を記録し続けている。)林由美香の母親の慟哭に比べ、平野監督は冷静に見える。(いや、あの場ではそうするしかなかった、のだと思う。)こういう場面を撮ってしまったことは映画監督にとって不幸なのか、幸福なのか。(そういう意味で、主題歌を歌う矢野顕子のタイトル「しあわせなバカタレ」というのはすごい言葉だ。)とにかく、平野監督はそれ以後、カメラを回せなくなってしまう。その5年後に出来たのが本作。映画のラストシーンに胸が突かれる。本作は明日から始まる山形国際ドキュメンタリー映画祭のインターナショナルコンペ部門にも選ばれている。
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