『沈黙の春を生きて』/映画で語るサイエンス
今日は午後から『沈黙の春を生きて』(監督:坂田雅子)というドキュメンタリー映画を試写で見た。監督は、前作『花はどこへ行った』でもベトナムの枯葉剤被害を描き、本作でもさらに枯葉剤の問題を追及していく。僕は映画を見ながら、はじめにタイトルを聞いた時の引っかかりが何だったのかが分かった。そもそも「沈黙の春」と「生きる」ということは逆の世界である。本作の冒頭でもレイチェル・カーソンの言葉が紹介されているように、「沈黙の春」とは農薬によって鳥たちが鳴かなくなった世界のことだ。では、その後を生きる、とはどんな世界なのか。それがこの映画であるわけだ。誤解を恐れずに言えば、僕は映画を見ながら久しぶりに怖くなった。ベトナム戦争に従軍した元米兵を父親に持つ子どもたちにも先天的な障害があらわれている。(ただし、僕はその遺伝のメカニズムがどうなっているのか分からず、少々混乱している。)同じようにベトナムでも直接枯葉剤を浴びた世代ではなく、子どもたちにも様々な障害があらわれている。彼らの姿を見続けるのはさすがに重い。だが、その重さこそが枯葉剤の影響であるわけだ。僕はまた、映画を見ながら現在の福島のことが頭をよぎっていた。アメリカでも枯葉剤の影響が認められたのは戦争終結約20年後のことだという。(ただし、枯葉剤を作ったメーカーはいまだに認めていない。)僕は福島で5年後、10年後、様々な病気が発病しても「放射能との因果関係は認められない」とされるのではないか、とずっと思っている。そんなことは絶対させてはいけない。だからこそ、今から大々的な疫学調査の準備が必要だ。話が脱線したが、この重い映画の中で、終わり近くしみじみとしたシーンが映る。アメリカの女性が父親が枯葉剤を浴びたベトナムの地を訪れると同時に、ベトナムで被害を受けた人たちとの交流をしていく。ラストに響く、ベトナムの一弦琴で奏でられる「アメージング・グレース」が沁みる。
夜、三鷹の星と風のカフェという所に行って「映画で語るサイエンス~映画は科学技術をどう描いてきたのか?」というトークショーを聞きに行った。旧知の粥川準二さんと、(サイエンスライター)、斉藤勝司(サイエンスライター )のお二人がSF映画に描かれたライフサイエンスについて語る。僕はバイオハザード予防市民センターの活動をしつつ、最近はじっくりと最先端のライフサイエンスについて考えることがなかったのでとても面白かった。取り上げていた映画は『ガタカ』『ブレード・ランナー』『キャシャーン』『わたしを離さないで』など。最初の二つは僕も大好きな作品。それにしても、最近、SF映画自体は多いけど、考えさせられ、ぐっとくる映画には随分出会っていない気がする。
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